秘境から世界に思いを馳せる
旅館サービス業 専務取締役
濱田賢さん
東京都出身。映像制作会社勤務からの独立、起業。その後、大手旅行会社での異業種経験とキャリアを充実させていた濱田さん。旅行先のフランスで出合ったゆるぎない文化の奥深さに「本質に触れる仕事がしたい」と妻の実家である宇奈月温泉の老舗旅館への思いを強くし、2015年にIターン。上映交流会『宇奈月温泉ソーシャルシネマトリップ』運営、宇奈月ガイドの会『ハートの台地』会員、黒部舞台芸術鑑賞会実行委員、宇奈月で舞台芸術を楽しむ会代表。
新旧が気高く在る国フランスで日本を考える
20代から10年余り、ずっと映像業界に身に置き、そのおもしろさに没頭していたという濱田さん。「ちょうど就職氷河期の時代で、念願かなって入った世界でした。大手クライアントから指名を受け信頼されるという誇り。ゼロから作品を作り上げる楽しさと達成感…クリエイターとして魅了され、仕事に全力を注いできました。」
そんな日々のなか、濱田さんは新婚旅行で初めてフランスを訪れ、古さと新しさが気高く融合する街並みに衝撃を受けます。「すべてが美しく、フランス固有のものとして本物の輝きがあった。発せられるすごいエネルギーに、あらためて『日本らしさとは何か』を考えさせられました。」自分が住む東京は、フランスに比べると常に変化していくイミテーションの要素が多いのではないか―そう気づいた濱田さんの胸に「自分が今まで追求してきたのは表面的なものだったのでは?」と疑問が沸いてきました。
折しも2011年3月、東日本大震災が発生。未曽有の大災害はクリエイティブ業界に意識変化を起こし、サスティナブルへの関心が高まっていきました。そして、全身全霊で映像の仕事に挑んでいた濱田さんにもターニングポイントをもたらします。「命をかけるほどの仕事をするなら、より本質に触れる仕事がしたい。」と、旅館業を通じて『日本とは? 日本人とは?』を追い求めることを決心。2015年、北陸新幹線開業で活気づく黒部峡谷、宇奈月温泉へと移住しました。
目に見えないものを感じとる『おもてなし』
とはいえ、旅館の仕事はまったく未知の世界。映像制作で培ったキャリアも、直接活かせるわけではありません。旅館の裏方の仕事に汗を流し、目が回るほどの忙しさに追われることに。「何も知らなかったから必死だった。旅館で働く従業員の気持ちに触れられる場と機会を与えてもらえたことに、感謝しています。」
『旅館は日本文化を表現し、伝える場』との思いを強くした濱田さんは、2017年、温泉街の茶道裏千家『山崎社中』の門をたたきます。山崎先生との出会いに衝撃を受け、特に『一番大切なのは相手を思いやる心。行動にも所作にも心は現れるから、目に見えないものを感じとることが大切』という言葉に鳥肌が立ったと語ります。「旅館は、お客様にとって人生の節目で旅館を利用されることが多い場所です。そういった背景を想像して行動することで、自然体な接客となる。お客様とふれ合うわずかな瞬間を大切にし、最後のお見送りまで心地よさをどう演出するかが重要だと思います。」
地域と人の器でありたい
温泉に浸かり、峡谷の豊かな自然を享受し、社会課題をテーマとしたドキュメンタリー映画を観賞して想いを語る交流サロン『宇奈月温泉ソーシャルシネマトリップ』。濱田さんが発起人として2018年から定期的に開催しています。そこには、『縮こまった世界ではなく秘境から日本人として世界に想いを馳せたい』という情熱が込められています。
「映画を観て秘境黒部で語らうことで、世界を旅することができます。文化の違いを知り、日本人としてのアイデンティティを確かめることが、人への思いやり、おもてなしに繋がれば嬉しい。黒部が大好きだからこそ、旅館は地域、人との器でありたい。」と語ります。
秘境の魅力は尽きることなく
関電黒部ルートの一般開放を2024年に控え、黒部峡谷と立山連峰をめぐる周遊観光への期待が高まっています。濱田さんは2020年4月に発足した宇奈月ガイドの会「ハートの台地」メンバーとして、温泉地や峡谷の自然や歴史文化を勉強中だとか。特に移住当初から黒部峡谷の豊かな自然には驚きの連続だったこともあり、思い入れは人一倍です。
「季節や天気、光の具合によって景色が全然違う。刻一刻と変わっていく様子に今もって、毎朝驚いていますよ(笑)お気に入りは山彦橋です。深い峡谷から吹き上げる風に、心が洗われる。風は大切なことに思いを馳せるよう導いてくれます。」
今後は、宇奈月温泉の老舗宿として、強みである日本の"食と美術"に着目して魅力を伝えたいと抱負を語ります。「日本文化をもっとわかりやすく、かみ砕いてたくさんの人に広めたい。でも、日本文化は奥が深くて、勉強しても勉強してもなかなか(笑)」と、はにかむ笑顔に愛嬌をのぞかせます。
伝統と風格を守り、峡谷の自然を愛し、文化とアートの発展に情熱を注ぐ―まるで錦秋の黒部峡谷のような多彩な魅力をもつ、次世代を担うリーダーの一人です。
COLUMN
「中途半端じゃない」大自然がある黒部へ
東京にいた頃は、下北沢や高円寺、荻窪と「便利で自分が好きな場所」に住んでいました。ただ、自分にとって「暮らしたい場所」の理想は鵠沼海岸だったので、いろいろ変遷を経て最終的にその夢をかなえました。暮らしたい場所の環境としては究極がいいなあと思っていて、現在住んでいる黒部峡谷は『秘境』ですからね(笑)黒部のお気に入りの場所は、実は荒俣海岸です。峡谷の次に好きな場所。観光地化されていない、砂浜の海岸でまさにプライベートビーチです。砂浜に座って波音を聞いて、静寂のなかで心を整えるようにしています。
移住を考えている人にアドバイスするとしたら、「やりたいことを、やりきったか」をよく考えてほしいということ。達成できないことがあっても、「全部やりきった」と思えれば、必然と最適な選択肢しか残らない。その選択肢として黒部への移住があるのであれば、それは間違いないのではないでしょうか。